話芸と文芸
文藝。いや、「文」の「藝」とは、一体どういうことなのだろう。なかでも、文章で笑わせることというのは、いったいどういう技術なのだろう、というのをずっと考えてきた。自分自身、笑いが好きであることもあるし、今まで様々な文章に笑わされてきた。文筆家になった以上、自分も読者をなんとかして笑わせたい。中島らも、町田康、岡田利規なんかに憧れていた僕は、彼らの文章を自分なりにアップデートして書こうと試みたが、ただの劣化コピーに終わった。僕は、文章での笑いを研究することにした。
まず、はじめたのは、お笑いのプロ、芸人が書いた文章を読むことである。これが初手から誤算だった。お笑い芸人が書いた、エッセイやコラム、これがちっとも面白くないのである。確かに、そこには、ボケがあり、ツッコミがあり、文章の最後にはオチらしきものがあるものもある。でも、何か違うのである。その違いとは一体何か。その違和感の正体とは。それは、彼らの笑い技術が、話芸。「話」の「藝」と呼ばれるものの基礎の上にあるからなのである。僕は、そう、仮説を立てることにした。
かつて、二葉亭四迷という小説家が言文一致運動というものを展開して、小説『浮雲』で、言文一致体は完成をみたと国語の教科書には書いてある。しかし、そうならば、話を単純化するために、凄く大ざっぱに言うが、話藝(話し言葉)であるお笑い芸人のコラムが、そのまま文藝(書き言葉)として成立し、面白くなければおかしくないだろうか。つまり、言文一致は、全然嘘っぱちなのである。書き言葉で笑いをとる場合と話し言葉で笑いをとる場合の特殊性、それは多少あるだろう。ただし、大きな欠陥は言文一致の不完全性で説明できてしまうと思う。
ちなみに英語では、言文一致が完璧なため、特に翻訳者が英語を日本語に訳すときに苦労するという。それは、カギカッコの話し言葉を日本語だと平易な日本語に訳し直さないといけないためだそうだ。英語は、書き言葉であろうと、話し言葉であろうと単語のレベルが同じだという。
話がそれた。これから、話藝と文藝にまつわる論点を様々に提示し、仮説が正しいのかどうか、確かめる作業を試みていく。文章が好きな人ならきっと楽しく読めるに違いない。そして、この序文は、僕が、この文章であなたに笑いを提供することを保証するものではない。
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